愛の国イタリアで鮮烈海外デビュー
モアイ「A che ora chiude queste negozio?」
(このお店、何時に閉まるのですか?)
店員「ope?fao△ta o?afame fare△…」
…いや、回答がまったく分からない。
これは衝撃的な海外デビューのワンシーン。
僕は大学でイタリア語を専攻していました。
大学2年生になって、
基礎的な文法や語彙力もついてきたし、
「ここらで一回、イタリアで実力試しや!」
と意気込んで向かった、愛の国イタリア。
大学の友人らと、たどり着いたミラノのあるマクドナルド。
20歳になったばかりという若さもあり、
怖いもの知らず。
真夜中に店内に座り込む日本人学生4人。
「そういえば、ここ何時まで開いてるんやろ?」と友人。
「ちょっと店員さんに聞いてくるわ」
と率先して立ち上がりました。
そして、話せると自信を持っていた僕が愕然。
「ダメだ、伝えることができても、
返ってくる内容が理解できない。」
語学学習や海外生活を始めたばかりの方も、
何度も僕と同じ体験をしていることでしょう。
過去の自分のことを悔やんでも仕方ないのですが、
せっかく悔しい思いをしたのに、
それをバネに勉強をしなかったんです。
心がポキって折れてしまったんでしょうね。
在学中は単位を落とすことはなかったものの、
「イタリア語をマスターする」
という意欲は湧きませんでした。
部活とバイトに明け暮れた大学生活を送り、
新社会人へと人生の駒を進めました。
今でも考えますよ・・・
もし在学中に、
しっかりとイタリア語を学んでおけば、
今ごろイタリア語を使った仕事をして、
イタリア駐在なんかもできていたんじゃないかと。
もし、あなたが今、
何かに取り組んでいるとしたら、
後悔しないように全力を出したほうがいいでしょう。
僕のように、後悔したくなければ。
ほろ苦い新入社員時代、海外勤務は夢のまた夢の話
東京に最終面接を受けに行った仲間と、
濃密な時間を過ごした研修期間。
フランス人の社長を目の前に、
憧れの”外資企業”に入社することができた!
と、目を輝かせていた2008年4月。
全国に展開する製造メーカーに入社し、
札幌に住んでいる叔父からも賞賛されました。
そして、配属先は兵庫県姫路市にある営業所。
工場を併設している姫路支店は当時、
その会社の数ある営業所のなかで
売上高トップ3でした。
それなりに会社の期待を感じていたし、
その期待感が心地よかった。
しかし、社会人の現実は厳しいと痛感したのです。
教育係の西井さん(仮名)によるOJTが終わり、ようやく独り立ち。
何社かの顧客を担当させてもらうことになりました。
ある冬の朝、
いつも通り平日の朝7時に目を覚ますと、
会社用携帯に不在着信が20件。
てっきり、これまでの着信履歴を見ているのだと寝ぼけていました。
目をこすって、もう一度見てみると、
やはり”不在着信”だったのです。
時間帯は夜中2時から3時にかけて。
発信者は、なんと教育係の西井さん。
「げっ! いったい何ごと?!」
と思い、折り返しの電話を入れると、
開口一番、「電話でろや、ボケー!」と。
人生の中で一番出社したくない日となりました。
「おはようございま〜す」
と小声で挨拶をしながら入った事務所。
ホワイトボードに訪問先を書いていた西井さんが、
スタスタスタと僕のほうに向かってくる。
「自覚を持て!!」と怒鳴りながら、
僕の頭を一発、平手打ち。
なんて理不尽なんだ…と思いつつも、
ようやくそこで今回の件について説明してくれたのです。
引き継いだ担当顧客の中に医療機関があり、
そこに設置しているシステムに不具合が発生したのだと。
それで病院の担当者から西井さんに連絡が入ったそう。
「えらいお客さん、持ってしまったな」
というのが本音でした。
その医療機関の場所は、
姫路市から車で2時間のところ。
こんな真冬の夜中に、
いち営業スタッフの僕が行って
「なんの役に立つのだろう」
と疑問に思いました。
が、そんなことは西井さんには聞けず。
ぶつぶつ言いながら、
その件の処理を始めるのでした。
神戸にある拠点から医療部隊が到着し、
今後の対策などを先方に説明し一件落着。
さすがに頭を叩かれるようなことはもう二度となかったけど、
平凡な日々を過ごす毎日に嫌気がさしていました。
週に何度か、職場の同僚と飲みに行って、
会社に対する愚痴をこぼす。
その後、中心街にある飲み屋に繰り出し、
変わるがわる夜の蝶に
意味のない自己紹介を繰り返す。
あれ・・・
なんで自分は”外資系”企業に入ったんだろう。
と、自分を見つめ直すようになりました。
自分は「海外で生活したい」と思って、
チャンスがありそうな会社に入ったんだっけ。
でも、入社してから少し経って分かったのです。
正直言って、
海外に行けるチャンスをものにできるのは、
技術系または管理系のエリート社員のみ。
片田舎の営業所員はどっぷり地場で揉まれるだけ。
そう気づいたのでした。
2008年は、ちょうどリーマンショックが始まった年。
勤めていた会社も不況の煽りを受ける。
経済が冷え込んで、「極力転勤を減らす」ことになったようです。
その営業所には転勤待ちの先輩社員が4人。
自分の将来の姿が鮮明に映ったのです。
縁もゆかりもないこの地で、
地元の女の子と結婚して、
営業所長くらいになって終わっていくのかなと。
そんな待ちの姿勢、ネガティブな感情に嫌気がさしました。
自分がやりたかったことを見失いかけていた。
ようやくハッと目が覚める瞬間が訪れたのです。
こんなところで一生を終えていいのか。
もっと自分がやりたいこと、
自分しかできないことはないのか。
そう思い始めるようになったのです。
ペルー人友達との再会、スペイン語との出会い
外国語大学に通っていたことから、
大学時代からペルー人の知り合いがいました。
というか、同じ部活の後輩です。
名前はニコラス(仮名)。
彼は途中で退部してしまったけど、
卒業してからも大阪で会ったりしていました。
ある日の昼下がり、
ニコラスと過ごしていたとき、
彼の母親から電話がかかってきました。
久しぶりにリアルな外国語を耳にしたのです。
そう、その言語はスペイン語。
すごく心地の良い音で、
まるで音楽を聴いているよう。
その音がずっと耳に残っています。
何を喋っていたのかは、
まったく分かりません。
唯一、分かったのは「もしもし」だけです。
でも、すごく好きだと感じました。
それから何度か、ニコラスと会うことがあり、
大阪に住むラテン系のコミュニティを紹介してくれたのです。
大体会う場所は、大阪ミナミのクラブ。
または、ペルー料理屋さん。
勝手なイメージかもしれないけど、
日本にいる南米の人は出稼ぎに来ている。
つまり、そんなに裕福ではないはずだ。
さらに外国人というだけで、
日本人のように生活できない。
そんな状況の中で、
「なんでコイツらは、
こんなに楽しそうに生きているんだ」
と首を傾げる瞬間が何度もありました。
その時なんですよね。
南米に行ってみたい!と思い始めたのは。
それから南米で生活している自分を
思い浮かべるようになったのです。
生活するためにはスペイン語を勉強しないと、
と思って分厚い参考書を買いました。
その参考書を使って文法の勉強開始。
興味を持つ瞬間というのは急に訪れます。
興味が湧いたらすぐに行動しましょう。
それが夢に近づく第一歩だからです。
姫路の洋食レストランは、リマのミラ・フローレス
「ここをリマのミラ・フローレスと思って会話してみましょう。」
姫路市で知り合ったペルー人女性のパトリシアがそう言います。
(なぜか、ここでもペルー人と出会い、仲良くなる)
でも、自分の心の中では、
「げっ、まだ会話の実践練習なんて時期尚早だよ」
と、ビビっていました。
前に買ったスペイン語の参考書もまだ終わっていません。
動詞の活用が難しくて、
つまずいているところです。
それでも、そのセカイに入ってしまった。
まだ行ったこともない、
ペルーのミラ・フローレスという街に。
その街にあるレストランで
スペイン語を話しているのです。
周りにいるお客さんも皆、
僕からすると外国人。
(現実世界は、周りには日本人ばかり)
カタコトだけど、頑張ってスペイン語で話そうとした。
少しだけど、スペイン語が話せた。
そんな小さな体験ができたのです。
もし、ビビって行動していなければ、
夢は途絶えていたでしょう。
運も味方につけないといけません。
そのためには、自分から環境を変えていきましょう。
今までは会社の同僚と飲みに行って愚痴を。
ぐちぐち言っている時間をスペイン語の勉強にあてる。
飲み屋の子に日本語で自己紹介する代わりに
スペイン語ネイティブにスペイン語で自己紹介する。
飲み屋の女の子に1杯奢るくらいなら、
コーヒーを奢ってスペイン語の練習相手になってもらう。
できることなら何だってある。
自分から環境を変えていかないと、
何も始まりません。
もし読者の皆さんが人生を変えていきたい
そう思っているのであれば、
今からできる小さな変化を積み上げましょう。
夢は人に語るもの、黙っていても始まらない
夢は人に語るものだと思っています。
でも正直言って、
ちょっと小っ恥ずかしいですよね。
だって、みんなの反応が怖いから。
「そんな夢、叶いっこないよ。」
「無理無理、お前になんか絶対ムリ。」
「どうせ口だけやろ?」
これら全て、家族や親しい友人から僕が頂いたありがたい助言です。
みんな、自分のことを心配してくれている。
みんな、自分のことを愛してくれているんだ。
と思った瞬間でした。
でも、中には”自分の夢”を応援してくれる人も出てくるのです。
会社の同期でもっともクレイジーでスマートな女性、まな(仮名)がその一人。
彼女以外は、覚えている限り全員が日本残留派。
まなの提案ひとつで、南米への道しるべが出来たのです。
そう、僕は周りのみんなに
「南米に行く」と言いふらしていたのです。
全く何の手がかりもないくせに。
その彼女が提案したのは、
青年海外協力隊のJICA。
「これだ!」と思えました。
- 有り余る体力を有意義に使いたい
- 何かの役に立ちたい
- 新しい世界を見てみたい
- 新しいことにチャレンジしたい
そう思っていた自分にはもってこいのアイデア。
思い立ったが吉日。
早速、履歴書を整えて応募しました。
面接では自分のビジョンをはっきりと伝えました。
面接官からはアフリカ行きを推奨されましたが、もう答えは分かると思います。
これまでやってきたことを一旦、全て捨てる覚悟で次の道へ進むことにしたのです。
このように夢を語ることは、
新しいチャンスにつながります。
誰かの心に届けば、
応援してくれる人が現れる。
そういう人たちと付き合っていけば、
自然とそのセカイに吸い込まれる。
大きな夢がない人でも、
ちょっとした願望を口にしてしまいましょう。
きっと、理想としている姿に近づいていくに違いありません。
地球の裏側にいた同胞たちとスポーツ三昧
海外に出れば日本の良さが分かります。
圧倒的に生活の質が異なるからです。
美味しいものはたくさんあるし、
お値段以上のモノもたくさんある。
そして何よりも、観光地の多さ。
そういったことに気づかせてくれるのです。
海外に出てみないと比較できませんよね。
自分も日本しか知らなかった時分は、
それが「当たり前」だと思っていました。
でも、海外に出ると当たり前ではない。
そう痛感しました。
目を輝かせ、胸を踊らせ、
青年海外協力隊でたどり着いた地は、
パラグアイのある日系移住地。
あれ? どこ、ここ?
日本の過疎化された村でしょうか?
とキョトンとしたことを鮮明に覚えています。
自分はスペイン語の世界に
どっぷり浸かるつもりだったのに・・・
描いていたシナリオと全然ちがう。
最初はやや残念に思っていました。
しかも、ジロジロ見られている感じがする。
背後に視線を感じる。
やはり、村社会。
他所から来た人間が相当珍しいようです。
すごく窮屈に感じる日々を過ごし始めました。
最初は日系人との距離感を縮められず。
でも、運が良く先輩隊員が2名、
すでにその日系移住地で活動していたこともあり、
何人かの日系人を紹介してくれました。
日中の活動後、いわゆるアフター5で
体育館でやっているフットサルに連れて行ってくれました。
これまでサッカーはやったことがなく、
ど素人だったので足手まといに。
そんな自分でも快く迎え入れてくれました。
ゲームの合間の休憩時には、
なんとテレレ(マテ茶の冷たい版)の
回し飲みに参加させてもらいました。
金属製のストローを口づけするスタイル、
最初はめっちゃ抵抗がありましたよ。
が、「郷に入っては郷に従え」です。
僕もその輪に混ぜてもらいました。
フットサルが終わると延長線です。
テレレから缶ビールに飲み物が変わる瞬間でした。
そして、缶ビールでも回し飲み。
文化の違いに驚きを隠せませんが、
それはそれで意外とメリットも。
冷たいビールが回ってくるので、
ぬるくなったビールを飲む必要がありません。
お酒は結構いける口だったので、
「次はうちの村でやるバレーボールに来い」
「夏は野球するからうちのチームに入れ」
と、ひっぱりだこに。
お誘いをいただいたら断らないのが当時のポリシー。
すべてのイベントに顔を出すようになりました。
スポーツを通じて、たくさんの日系人に出会えたのです。
バレーボールやサッカーは得意ではない。
でも、スポーツすることは好き。
なので、そんなことは気にせずに参加する。
そうすることで、色んな出会いがあり、
色んなお話を聞ける機会が増えました。
たくさんの日系人に可愛がってもらいました。
その中でも2家族は特別です。
どちらも自分と同世代で3児の父親。
何度も自宅に招いてもらってBBQをして
夜遅くまで飲んで語る。
スペイン語を学びたいと思っていたくせに
「やっぱり日本語で話せるとすごく楽。」
そう思ったのも事実です。
しかし、スペイン語はやらないといけない!
と自分を鼓舞し努力しました。
ある言語交換サイトに登録して、
スペイン語の練習をしようと決めたのです。
自分が日本語を教える代わりに、
相手からスペイン語を学ぶ。
登録後まもなく4人のラティーノ達と連絡開始。
「なんのアニメが好き?」
「このセリフ、どういう意味?」
と、アニメラバーばかり。
あいにくアニメはそんなに見ないんだよな・・・
よし、これで最後にしようと、
友人申請を送った女性が今の妻です。
彼女はアニメに全く興味がなく、
幼少期に日本人家族がご近所さんにいたと。
さらに中国人の同級生や韓国人の友人がいて
小さい頃からアジアの国々に興味があったそう。
彼女が唯一、僕にやさしくスペイン語を指導してくれる人でした。
チャットから始め、テレビ電話に進展。
スペイン語で文字を打つのは、
時間的な余裕があるし、辞書も使えるので楽。
ただし、これがリアルな会話になると、
そんな悠長なことは言ってられません。
すごくあたふたしていたことを覚えています。
最初は慣れずに失敗ばかりしていたけど、
徐々に慣れてくる自分がいました。
そしてチリに遊びに行くことにしたのです。
新天地チリで迎える悲劇
初めて足を踏み入れたサンティアゴ。
森に不時着したかと思ったパラグアイの首都アスンシオンとは何かが違う。
空港から市内に移動するタクシーのなかで
見る光景に驚きを隠せませんでした。
南米一の高さを誇る摩天楼
『コスタネラ・センター』
が目に入ってきた時は衝撃的。
「なんて、都会なんだ。」
ネットで知り合った文通友達(今の妻)の家も大きい。
それからサンティアゴの街を紹介してもらい、
一緒に食事などをして楽しく会話しました。
それから先のことは想像に難くないでしょう。
両親に事情を説明したら困惑していましたが、
結婚前提の交際を始めたわけです。
2015年6月の1か月間だけ共に日本で過ごし、
チリに最長6か月だけ過ごすことを目的に3度目のチリ渡航。
それがきっかけで現在もなお、
チリで生活をしています。
滞在の目的は相手の両親と過ごすことでした。
なぜなら、日本を拠点に生活するつもりでいたからです。
そして、もう一つの目的はチリ国内で結婚の手続きをすること。
役所に婚姻届を提出して、簡単なセレモニーを執り行ってから日本に行く。
そういう計画を立てていました。
ところが彼女から
「少し体調が悪いの…
薬局に行きたいからついてきて。」
と言われたのです。
まさか…
そう、そのまさかだったのです。
“幸いにも”結婚前提だったので問題にはなりませんでした。
ただ、もう少し二人の時間を楽しみたかったというのは共通の意見。
薬局で購入した妊娠検査薬が陽性反応に。
嬉しい気持ちと、この先どうしようという不安が同時にやってきたのです。
そして、日本に帰るつもりでいたので当時の僕は無職。
日本で勤めていた会社の退職金と少しの貯金を当てにしていました。
結婚式を挙げるつもりもなかったので、
結婚資金というものはありません。
さすがに無職で出産なんてありえない。
そう思って、”外国人”である僕でもできる仕事を探し始めます。
当時はスペイン語も英語も初心者に毛が生えたレベル。
相当な不安に襲われていました。
一刻も早く職を見つけないと・・・
それがチリに移住するきっかけになったのです。
ここまでの話を読むだけでは、
「え、このどこが悲劇なの?」
と思われる方もいるかもしれません。
職自体はすぐに見つけることができました。
むしろ幸運ですよね。
ボランティア時代の同期である
シニアボランティアの松崎さん(仮名)が
たまたまチリで活動されていたのです。
彼と昼食を共にしたときに状況をお伝えしたんですよね。
「これからある会社に行くので一緒に来る?」
と誘っていただいたのです。
もちろん答えはYES。即行動です。
そして、その会社は日本人が欲しいとのこと。
スペイン語も英語も中途半端な自分でしたが、
なんとか自分の強みを活かせる場所を見つけられたのです。
固定給ももらえるようになったので、
出産に向けて準備を始めます。
お腹の状態を確認するためにエコーに行ったり、
多くの病院の出産費用を確認したり。
そこで感じるのです。
「医療・出産関連のスペイン語なんて全然わからない。」
「自分って、これっぽっちも役に立っていない。」
自分の能力が低くて落ち込むくらいなら
別にどうってことありません。
悲劇はその先に待っていました。
出産予定日は4月16日。
ちょうど名前を決め始めていた頃でした。
ファーストネームは日本語と決めていたので、
妻から名前の候補を20個くらい挙げるように注文されます。
あれでもない、これでもない。
そうやって名前を考える日々が続きました。
2月のある木曜日の夜中、
はち切れそうなくらいに膨れたお腹で歩く妻が
寝る準備をしていた時のこと。
「あ、なにか漏れたかも?!」
と慌て始めます。
そして確認すると大量の血が・・・
二人とも大慌てで、
一緒に住んでいた義父に伝え、
近くの病院に連れて行ってもらいました。
翌る日の午前4時に義父と僕はようやく帰宅。
妻は検査入院です。
そして、午前8時頃、眠気まなこを擦りながら
スーツを着て出社しようとした瞬間に妻から電話。
「今から産むことになったから、
今すぐに病院に来て!」
と、とても慌てた様子。
心の準備も全くできておらず、
何が何だか訳も分からず病院へ急行。
分娩室に到着し、1分ほど妻の横で手を握る。
すると、お腹から小さな赤ん坊が現れたのです。
そして、聞こえる助手たちの声。
「あ、ハサミがお腹に落ちた・・・」
おいおい、大丈夫かよと心底不安になりました。
2か月の早産、低体重で産まれたため、
3週間ほど保育器で過ごすことになった息子。
両親でも面会時間は限られていました。
僕は職場のランチタイムを利用して、
エンパナーダを口に頬張り通院していました。
当時の写真を見ると本当にげっそり。
順風満帆な人生かと思っていた矢先に一転。
か弱そうな新生児に、まさかの無保険での出産。
まだ届かない出産費用に頭を抱える日々が続きます。
窮地・無知・認知
銀行口座のない社員が給料を受け取る術は現金か小切手のみ。
給料をいただける月末になるのが待ち遠しかったです。
給料日当日は極力まっすぐに帰宅。
なぜなら、50枚前後の紙幣が入った封筒を
内ポケットに入れて、
スリの多いサンティアゴの地下鉄に乗り込む必要があったので。
最低賃金の倍くらいはいただけていたので、
それに対して、なにも不満はありませんでした。
むしろ、なんの取り柄もない自分を受け入れてくれたことに感謝。
給料の額を知っていたチリ人の同僚には、
「新人さん、しっかりもらっちゃってるね。」
なんて嫌味を言われるほど。
なので、「そんなものか」と納得していました。
でも、この金額で生活するのは本当に苦しい。
妻の実家で生活していたので
家賃はかからないはずなのに。
「もしこれで賃貸マンションに住んでいたらどうなるのだろう」
と首を傾げていました。
さらに、早生まれの息子の通院代などが相当痛かったです。
貯金も底をつくようになり、
窮地に追い込まれた感じがしました。
結構しっかりと働かされるのに、手取りは日本より相当少ない・・・
と過去には年間でボーナス6.3か月分もらえていた環境が懐かしく思えました。
どうすれば生活が良くなるのか、
まったく分からない。
それでも、取り柄である持ち前の明るさで
日本人駐在員の友人・知人に笑顔を見せようと努力します。
マンションに招待してもらうと待遇の違いを目の当たりにすることに。
なぜ、同じ日本人でこんなにも生活が異なるんだ。
精神的に弱かった自分は、
そうやって羨むようになりました。
おまけに、自分のステータスを馬鹿にする人も出てくるのではと不安にも。
自分だって、広いマンションに住んで、
新型の車に乗りたい。
でも、これまでお付き合いしてくれた友人やその家族は温かったのです。
こんな自分でもいろんなお誘いをしてくれました。
そのうちの一人、今西くん(仮名)が僕の人生を変えるきっかけを与えてくれました。
「僕のスペイン語の先生が、
スペイン語ができる日本人を探しているって。
先生の生徒に、別の日本企業の駐在員がいるそうで・・・
どうやら、その方が現地社員を探しているみたい。
モアイくん、どう?」
と声をかけてくれたのです。
とても嬉しかったことを覚えています。
ただし、自分を拾ってくれた企業で
まだ1年も働いていません。
転職ばかりしてしまうと評価が低くなる
というイメージが先行して踏み切れません。
それに感謝の気持ちもあります。
せっかくのお話なので、
なんとかしたかったのです。
「そうだ!僕がパラグアイで知り合った日系人に紹介したらいいんだ。」
と思い、お話を聞かせてもらうことに。
そして、その今西くんに先生の連絡先をもらいました。
それからすぐにメールで連絡し、
面談日を設定してもらったのです。
「お〜、すごい立派なところにオフィスがあるんだな・・・」
と、ホテルに併設した事務所ビルに入ります。
他人に紹介するだけなのに、
なぜかドキドキする自分。
20階のオフィス内にある個室に通されました。
そこで初めて、中田さん(仮名)に出逢うのです。
彼は大阪出身。
地球儀レベルで考えるとご近所さん。
すごく話が弾み、あっという間に1時間半が経過していました。
「モアイくんが、一度面接においで。
どうするか考えて返事をちょうだい。」
と言われ、心が揺さぶられます。
「せっかくチリで生活しているのだから、
チリの主要産業で活躍してみたい。」
そう思い始めたのです。
それから妻や義父にも相談し、決意を固めました。
中田さんに連絡し、次の面接に向け準備をしました。
先日訪れた20階の事務所ではなく、
別のビルの15階の事務所に招かれます。
「(採用されたら)こんなところで働けるんだ!」
と胸を躍らせます。
社長面接も終え、いよいよ条件提示を待つのみです。
「XXX,XXXペソ・・・」
一瞬、時が止まりました。
そうです。
当時働いていた金額と全く同じだったのです。
こちらから、いただいている給料の額を事前に伝えていたけど、
まさか、「それに合わせてくる」とは思いもよりませんでした。
そうであれば、にわかに生まれた自分の挑戦よりも、
苦しいときに助けていただいた恩を大切にしたい。
正直にそう思ったのです。
そして、一度断りのメールを送りました。
後から聞くと、女性候補者がもう一人いたそうです。
しかも、スペイン語ネイティブ。
そちらに決まるんだろうな・・・
と思っていたところに再提案。
「先日に提示した金額の倍にしました。
いかがでしょう」と。
内心、すごく嬉しかったです。
- 自分の価値が評価された気がする
- チリの主要産業で新たに挑戦できる
- 苦しい生活から抜け出す光が見え始める
本当に自分を救ってくれた会社にも感謝していたので、
「立つ鳥跡を濁さず」という気持ちで経営者に話をします。
今後の人生プランを含め説明しました。
やはり「辞める」と告げるのは心苦しいものです。
その経営者は無理に止めることもせず理解してくれました。
でも最後に彼から言われたセリフ。
「お給料、今の倍だすよ。
どう?残らない?」と。
なぜ今頃・・・
中田さん家のBBQとアルマヴィーヴァ
今でこそ、このブログやSNSで、
チリワインの投稿頻度が上がってきましたが、
実は数年前までは、
ワインよりビールを好んで飲んでいました。
というか、
どちらかというとワインは苦手でしたね。
でも、数年前のある晴れた土曜日の夕方のこと。
当時勤めていた会社の仲間とゴルフに行った後
広いテラスでするBBQに招いていただきました。
ある人がチリのプレミアムワイン
『Almaviva(アルマヴィーヴァ)』
を持参していました。
他にも招待客は何人もいたし、
僕は下っ端でしたが、
その高級ワインを少しだけ注いでいただいたのです。
当時、チリワインのことはチンプンカンプン。
が、そんな僕でも口に注ぐとすぐに違いを感じました。
それをきっかけにワインに対するイメージが変わったのです。
そこから、
「同じ感覚をもう一度味わいたい」と思い
チリワインを買い漁りましたが結局出逢えず・・・
そりゃそうですよね。
アルマヴィーヴァは日本円換算で2万円程度。
僕が買っていたのは、
1,000円未満のものが大半。
半ば諦めかけていたけど、
少しワインの価格帯を上げてみると、
「今までのワインと口当たりが異なる。」
と、そう思ったのです。
そうですね。
日本円換算で2,000円以上のワインであれば、
そこそこ美味しくいただけると思います。
最近では、日本でもチリワインのプレミアム化が進んでいると聞きます。
それでもやはりまだ安いチリワインが多いのでは・・・
「もっと美味しいチリワイン、あるんだよ。」
って声を大にして言いたい。
もっと美味しいチリワインを知ってもらいたい。
だから今の僕の夢は「もっとチリワインを普及させる」ことです。
そして、チリワインを通じて、
自分の大きな夢を達成すること。
僕とチリワインにはそういった繋がりがあります。
ここから先のことは書こうか迷ったけど、
バーベキューで気さくにお話してくれた中田さんの奥様が、
日本に帰国した後、
病気で亡くなられてしまったのです・・・
ワインを飲むと、今でもあの楽しいひと時の様子が甦ってきます。
チリで出逢って可愛がってくれた先輩の大切な人。
彼女のハツラツとした姿と笑顔を見習って生きていきます。
「よし、一念発起してチリワインの貿易を始めよう。」
そう思って次のステージに向け、
6年半勤めた会社を退職しました。
そして次のステージに向けて
着実に準備を整えていったのです。
暗黒の1年半、自信喪失からUberの運転手に
2023年2月、いよいよ生活の拠点を日本に移すときが来ました。
そう思っていたのですが、
ある重大なミスを犯してします。
そのせいで帰国の計画が台無しに。
日本にいる家族、チリにいる家族に
多大な迷惑をかけてしまいました。
チリワインの貿易計画は一旦白紙に。
そんなスタートを切った2023年新年。
当然、自分の精神状態はどん底に。
生きていく意味を本当に失ってしまいました。
これからどうすれば良いのか。
何をしていきたいのか。
まったく何も思い浮かびません。
そんな状態が何か月も続くのです。
しかも、周りの友人にも壮大な計画を言いふらし、
みんなに「頑張れよ」と応援してもらっていました。
そんな友だちにも合わせる顔がない。
最初の数か月は退職金があったので、
何もせずに過ごしていました。
友人家族の浅井さん(仮名)には
大変お世話になってしまった。
当時の唯一の心の支えは彼らでした。
精神的にまともな状態ではなかったので、
3人のセラピストにも見てもらうことに。
でも、まったく役に立っているとも思えない・・・
自分では変われている実感がなかったのです。
そうこうしているうちに数か月が経過し、
いよいよ目減りしていく貯金に焦りを感じます。
何とかしないとな・・・
でも人には会いたくない。
だからWebライターとしてお仕事ができないかな。
クラウドソーシングで仮想通貨メディアの執筆を受注しました。
目まぐるしく変わっていく仮想通貨の世界。
知らないことを学ぶことが楽しかったものの、
正直、全然割りに合わない仕事だと痛感しました。
それ以外の案件を受注できず立ち往生。
「自分の知識を使って、スペイン語学習のコーチを目指すか。」
とプランを切り替えることにします。
インスタグラムでスペイン語の発信をはじめ、
フォロワー数が450名になった頃合いにローンチ。
ところが、見事に大失敗。
関心を示してくれたフォロワーさんはゼロ。
発信内容がつまらなかったのか、
僕が胡散臭かったのか。
45分の動画を作ったけどお蔵入り。
15以上ある資料や特典も誰の手にも渡りませんでした。
得意だと思っていたライティングもスペイン語もダメ。
マネタイズに繋げる知識と根性がありませんでした。
そして行き着いた最後の手段、
Uberの運転手。
頭を使って稼げないのであれば、
体を使うしかない。
2010年式のミッション車で臨む運転手としての人生。
初めてのUberから通知が届いたとき、
受けるか受けまいか、親指が硬直しました。
それでも「どうにでもなれ」という思いでボタンを押しました。
それから200人以上のお客さんを乗せて、
サンティアゴ市内を走り回ったのです。
ときには治安の悪そうなストリートを通り目的地へ。
ときには完全に相手に非があるのに、
ブチギレられたり。
何よりも効率が悪い。
でも背に腹はかえられません。
しばらくUberの運転手を続けていました。
いよいよ、生活資金が底をつきかけたので、
いつまでも隠れて生活はできない。
ようやく割り切って、
日本人社会に戻ることに。
それから数か月間、
新たなことに挑戦しました。
そこでも苦悩に満ちた日々を過ごすのです。
でも一つだけ明らかになったのは、
自分のスキルや知識は捨てたものではない。
必要としてくれる人がいる、
そう思えるようになってきたのです。
とても苦しい1年半を過ごし、
それがこの先の人生のバネになることでしょう。
あの時の生活を思い出すと、
もう何をしても辛くない。
何をするのも怖くない。
自分に足りないもの全てを見つけることができました。
ようやく前を向き始めます。
自分には相談できる人もメンターもいませんでした。
そんな時、あるインフルエンサーの発信に惹かれるようになります。
一流経営者の思考を覗いてみたくなり、
彼が出している教材を購入します。
毎日彼の思考をインプットすることで、
今までの思考パターンが変わってきたと実感しています。
ようやく泥沼から抜け出せた・・・
希望の光が見えてきたのです。
日本とチリをつなぐ架け橋になれるよう目指す
自分にとって究極の未来とはなにか。
まずは【自分を含めた家族みんなが幸せに過ごす】ことです。
それから僕が彼の発信から学べたように
自分も誰かを救う発信がしたい。
誰かを救うために手を差し伸べたい。
そう思うようになりました。
僕は20代の頃に
「スペイン語圏で生活してみたい」と思い、
その願いを叶えました。
でも、その道のりは決して容易なものではありませんでした。
誰にでもできるような再現性のある手段ではないからです。
日本には少数かもしれませんが、
海外で生活してみたいと憧れを抱く人がいます。
逆も然り。
日本に住んでみたいという外国人も多いでしょう。
その一助になりたい。
多くの人が、違うセカイに住めるようにしたい。
具体的には、僕がビジネスを作り、
そのビジネスを通じて人を動かせるようになりたい。
その手段となるのが、自分の強みとなる「チリワイン」と「スペイン語」だと思っています。
チリに10年住んで、スペイン語も堪能になりました。
チリワインに興味を持ちはじめたのは、
最近になってからです。
でも、チリに住みながらワインのことを勉強する日本人は少ないでしょう。
「これらの”ツール”を使って、ビジネスを立ち上げたい。」
本気でそう考えています。
まずは日本に戻って、
チリワインの輸入を実現したいです。
チリワインはすでに日本で流通しており、
”安旨ワイン”として馴染みがありますよね。
僕がそのラインで太刀打ちしても、
きっと歯が立たないでしょう。
取り扱うべきワインは、
チリのプレミアムワインまたはブティックワインかなと。
一定のコアなワインラバーに、
別のセカイを提供したいと思っています。
なので、日頃から日本で馴染みのない高価格帯のチリワインについても発信しています。
チリワインを輸入して、
まずはチリ人のワイン生産者を、
僕が生まれ育った故郷の日本に連れて行ってあげたい。
もちろんその前に僕の妻を連れて行き、
彼女に日本生活を満喫してもらうことが最優先ですが・・・
拠点は僕の地元奈良にします。
その理由は、僕の故郷であり、
歴史がある町だから。
民家を和のテイストを強調した造りに改装、
そこにチリ人のお客様を迎え入れ、おもてなし。
奈良を中心に、京都や大阪、神戸などの観光名所を案内したいですね。
チリワインの輸入事業が軌道に乗れば、
次の事業を立ち上げます。
それは、チリワインをより楽しむための場所と機会の提供。
具体的には、レストランを経営したいです。
白ワインを愉しんでもらうために、
ペルー料理屋さん。
チリ料理屋が理想的ですが、
残念ながら世界的に見てもマイナーなので却下。
ただし、伝統的なペルー料理ではなく、
”フュージョン”形式のレストラン。
風変わりではあるが、美味なお寿司や、
その他の海鮮料理が好きなのです。
次に、赤ワインを楽しんでもらうために、
肉バルの経営。
店内で豪快に肉を焼くスタイルです。
ここでは、味のしっかりしたカベルネ・ソーヴィニヨンが最高でしょう。
チリやその他南米諸国で愛される”アサード”をお客様に提供することで、
少しでも南米の雰囲気を味わってもらいたいです。
レストランで働いてもらう店員さんは、
スペイン語圏に興味を持つ学生さんが理想的。
スペイン語研修付きにすると優秀な人材が揃いそうですね。
そして、シェフやウェイター、ウェイトレスとして、チリ人やペルー人を雇用したい。
そうすることで、従業員同士、また従業員とお客様の間で、国際交流が生まれます。
輸入事業と飲食店経営が軌道に乗れば、
さらに事業を拡大して、
チリでぶどう畑とワイナリーに投資。
大規模な企業でなくていいかな。
できたら会社で取り扱うワインの生産者がいいですね。
小規模または中規模のワイナリーで、
醸造学の研修やワイナリー見学の受け皿にしたい。
株主になることで、その可能性を高められると考えます。
両国にビジネスを立ち上げることで、
チリと日本の間を自由に行き来できる。
それが僕の家族にとっても最良かなと思っています。
この描いた未来を現実にするために、
コツコツと活動していきます。
長くなりましたが、
以上がモアイの自己紹介となります。