今日はちょこっとだけ僕がここに辿りついた訳をご紹介いたします。長いのでご興味のある方だけどうぞ!
大学時に留学をしなかったことの後悔から海外志向へ
僕は大学で外国語を学んでいたのですが、そのクセに海外へ留学をすることなく、そのことをかなり後悔していました。4年制の大学だったのですが、ずっとスポーツばかり。そのスポーツに夢中で性格の形成に役立ったり、普通できないような経験をたくさんすることができたと思っています。でも今となっては生活にとって直接メリットがあったかというと少し疑問が残ります。
大学時代には特に夢なんかもなく、なんとなく過ごしていたことが悔やまれます。やはりあの時に、一番自由な時間が多いはずの期間に自分の経験値を高めることをしておけば良かったと思います。もし、あの頃に留学をしていたら、きっと新卒から海外を渡り歩くビジネスマンになっていたかもしれませんね。
なかなか関西から抜け出すことができない社会人時代
卒業後はある外資系の企業に入社したのですが、転勤もなく初めての任地で6年が経過しました。入社時には営業職であれば3年程度で転勤があるようなことを人事担当が言っていたことを思い出します。ところが、2008年のリーマンショックが影響してか、異動の機会が激減していたのです。
ここでも大学でしっかりと勉強をしなかったことが悔やまれました。外資系企業だったので、有望なバイリンガル社員は東京の本社勤務が多かったんですね。当時の社長はフランス人で、日本国外とのコミュニケーションもあったのですが、そちらに選抜もされず関西の田舎町でひっそり過ごしていました。
大阪でのペルー人との付き合いからラテンへの興味
大学を卒業して一旦は離れたスポーツを再開。関東に配属となったらそのつもりはなかったけど、運が良く関西となったので気の知れた仲間とまた戦いはじめました。実は所属したチームが自分のレベルを超えていてストレスの日々も続きました。
そんな最中、気の合う先輩と仲良くなって、夜の街に繰り出すことも多くなりました。そこで再開したのが、大学のチームメイトだったペルー人の後輩。自分が4回生のときの1回生だったんですが、よくありがちな生意気だけど可愛い後輩ってやつでした。そんな彼は大阪はミナミで音楽イベントなどを手がけていたんですね。
彼のおかげもあり、心斎橋にあるペルー料理屋で他のペルー人やブラジル人など国際色豊かな環境に身を置くことが多くなりました。何回かその彼が主宰しているイベントに顔を出して欲しいということでミナミに行っていました。お決まりのコースは心斎橋にあるペルー料理屋でセビーチェのレチェ・デ・ティグレをぐいっと飲み干してから彼がオーガナイズしているイベントのダンスフロア。
そんなペルー料理屋で南米出身のメンズたちと(日本語で)会話していると、どうやら彼らの熱いハートが伝染してしまったみたいです。自分もやっぱり世界が見たい!僕も情熱的になりたい!という気持ちが強くなりました。それからどうやって関西を抜け出して、南米というクソ離れたところに行くかを真剣に考えるきっかけとなりました。
ジムとサルサとカウチサーフィン
勤務地では仕事以外に課外活動を盛んにしていました。その時はおもしろいと感じていたけど、同僚との飲みは結果的に生産性はゼロ。だいたい会社の愚痴や上司に対する意見の交換会でした。僕はそれよりもジムへ行ってカラダを鍛え、サルサで南米の雰囲気をカラダで感じていました。
本当に縁というのは不思議なもんで、ジムに行けばキャップを被っていた外国人と仲良くなったら、なんと彼はペルー人。サルサ教室で経営者やバーテンと話していたら、彼らもペルー人。一体なんなの?まるで南米へ行けというお告げが聞こえたようでした。
カウチサーフィンなんかに登録して外国人と触れ合う機会を作ったりもしました。初めて来たお客さんは中国人。なんか日本中をチャリで回っていたようで、到着した時にはヘトヘトでホンマに寝るだけ。本当は焼き鳥おごってあげるつもりでこっちは待ってて、あっつい日に汗だくの暑苦しい中国人を泊めてあげるだけに留まりました。
そんなある日海外の女性からコンタクト。なんとチリ人だったんですね。別に泊めてくれというわけではなく、たまたま近くに住んでいたから今度居酒屋に行こうというような誘いでした。そこでスペイン語の練習をしていました。その時はもう南米、行きますから許してください…って感じでしたよ。
ぬか喜び後の決断と別れ
海外移住か転職を検討していたある時、転機が訪れました。当時の広報部長自ら、「本社で働かないか?」と声がかかり、僕の勤務地で面談を受けたのです。よし、これで本社に行ける!と思ったのですが、それから2ヶ月ほど待ってみたけど連絡が来ない。面談時に転職も考えていて、タイミングが合わなければ辞職することも伝えていたけど、それが回答と受け止め辞職しました。僕は有言実行。チャオ、Jefe!
パラグアイ日系移住地のみんなに支えられた1年
そこでたどり着いた先はパラグアイ!もう何でやねん、って思われるかもしれませんが、あるプログラムで行っておりました。初めての海外生活は言語をはじめ、生活もなにもかもうまくいかないことだらけでした。でも生活していた町にいた日系人のみんな、関西人が物珍しいからか大歓迎してくれたんです。
スペイン語の学習も当時ひとつの目標としていましたが、パラグアイはまさかの公用語バイリンガル。グアラニー語という先住民のことばを普通に織り交ぜて話しています。これに参った僕はある語学交換サイトへ登録をし、空き時間で中南米の人たちとチャットやメールをしたりしてスペイン語を学んでいました。
実は今のチリ人妻がその内の一人なんです。彼女だけは優しく丁寧にスペイン語を教えてくれて、自分のプロジェクトに関することも手伝ってくれたりしました。他の中南米のみんなはなかなかクセの強い人が多かったんです。漫画の翻訳家だからこのセリフの意味を教えてくれだとか、その類ばかりでした。
南米人にとっては今という一瞬が大事で、かなり難しい判断に迫られました。プロジェクト放置+日系人からの白い目+実家からの総スカンvsチリ人妻との結婚。これはなかなか応えました。3つのネガティブ感情に打ち勝つ強いメンタルが必要な時でした。
まさかの妊娠発覚プラス早産でチリ滞在
3つのネガティブ要素を克服して晴れて結婚。チリにいる義理の両親にあいさつがてら渡航。2015年9月にチリの役所で籍を入れ、年明けの2016年1月ぐらいには日本へ本帰国する予定でした。
ところが役所での結婚手続きの予約を入れたところぐらいで妊娠が発覚。チリか日本のどっちで出産するか相当悩みました。
当時(今も)日本語を話せなかったチリ人妻を引き連れて日本で出産は考えれませんでした。自分の両親からのサポートも言語の問題でむずかしく、ましてや日本だと勤務中に病院や役所の付き添いなんか無理と思っていたからです。
苦渋の選択をとり、チリに残留することにしました。それを確定させてから本気で仕事探し。その頃はまだ誰も日本人と面識なく、冗談ではなく本当に電柱に貼ってある警備員とかの仕事のチラシなんかも眺めていました。
たまたまペルーにいた知り合いがコンタクトをとってくれて、当時チリにいた方の連絡先をくれました。そこで連絡をして事情を説明したところ、協力してくれてなんとか日本語がいかせる仕事に巡り合うことができました。
薄給だったけど実家住まいのおかげで、通常の出産費用は簡単に貯めることができました。でも人生そんなに甘くはありませんでした。
なんと2ヶ月も早くチビ助が出てきてしまったのです。ある木曜の晩にチリ人妻が大量出血をし、救急で一番近くにあった病院へ運びました。そのまま検査入院となり、自分は早朝3時ぐらいに妻の実家に戻りました。翌日9時前に出社しようと準備をしていたらチリ人妻から電話がかかってき、「今すぐ出産するからすぐに病院にきて欲しい」と言われたんです。
母子ともに無事に出産を終えましたが、両親のハートはボロボロ。出産後3週間は保育器の中で過ごしたチビ助を見に行くために、仕事のランチタイムにエンパナーダをかぶりついて走っていました。
なによりも痛かったのはお財布事情。運がめちゃ悪くプライベートの保険加入のための捺印前日にチビ助が出てきちゃいました。結局、保険加入できず。そのためなんと100万円も出産費用がかかってしまったのです。チビ助が今後ちゃんと成長していくかという心配もあったし、ダブルパンチをくらいました。
ちょっと前進をした現在とこれからの人生
出産から数ヶ月、少し落ち着いたところで転機が到来。当時の職よりもよりグローバルで業界的にも魅力のある職にたどり着いたのです。チビ助もすくすく成長してくれ、今となってはあまり2ヶ月早産による心配もありません。
僕は日本人なのでやっぱり日本が恋しいなと思う時は多々あります。まわりの日本人の友人はほとんどが駐在員で一時帰国の権利があります。僕にはそんな権利もないし、なんといっても帰国時は自費のエコノミーです。そんな友達を見ていると正直、結構うらやましいッス!でもこの悔しさをバネに今できることを頑張るんだという気持ちで日々頑張っています。
というような経緯でチリに住んじゃっています。こんな僕ですが、是非これからも応援よろしくお願いします!