先日は献血のご案内をさせていただき、みなさまにご協力いただいており本当に感謝しております。
ご報告ですが、義母は1/17(金)の早朝に安らかな眠りにつきました。享年79歳とは思えないぐらい若い姿で棺の中に横たわっていました。いつものワンピースを着ていたので余計に本当に永遠の眠りについたのかななんて疑うほどでした。
今まで日本で親族の葬儀には何度か出たことがありますが、棺に入っているのは白髪の痩せこけたお爺ちゃんだったので、変わり果てた姿に唖然としていた記憶があります。
義母は病気にかかってから一度は退院したものの、年末に再度容態が悪くなり再入院していました。それから約3週間が経過し息を引き取りました。
僕は入院中に数回お見舞いに行きましたが、危篤状態になる前の姿しか見てませんので、それから死に至るまでのプロセスを全く知りません。
なのでほんの数日前までは元気に過ごしていたのに、いきなり他界してしまったというような衝撃を受けています。
キリスト教の葬儀は今回で2回目ですが、神父さんの言っていたことが徐々に分かってきているという実感があります。
魂
故人の魂が残された人間の中で灯し続ける限り、まだ生きているということ。みんなから忘れられた時が本当の死だと。
義母がいなくなった家で日常生活を送っているけれど、台所に立ったり、義母の部屋の前を通ったり、玄関のドアが開いたりする度に彼女の姿が鮮明に思い浮かんできます。
家族がクリスマスプレゼントに購入した電子ピアノを妻が弾いている(実際は練習しているだけ)のですが、同じ場所に座って年末に再入院するまで黙々と電子ピアノで遊んでいた姿も目に焼き付いています。
週末の土曜日は日本でいう告別式の後に自宅で親族や友人家族と共に過ごしたのですが、やっぱりそこに義母の姿がないのが不思議でしかたありません。
もう義母の美味しい手作りチリ料理のアヒャッコやパステル・デ・チョクロなんかも食べれないと思うと、もっと一緒に過ごしておけば良かったなんかと思います。いつも僕のために分量を多めに作ってくれていました。僕が常に3杯ぐらいおかわりすることを見越して。僕への特別待遇を横で見ていた義父はいつもそんな義母を茶化していました。そんなやり取りももう見ることができません。
よく週末にウィスキーを飲みながらヨーロッパのトランプで遊んでいたことも思い出します。いつも手元のカードが知らずに義父に見えていて、不利だから席変わってくれなんてことも思ったりしました。もうその時間を過ごすことは一生できません。
義母は友人とのお喋りが好きで、チリ人特有のpoを連発するのが特徴でした。その度に義父にpo, poと茶化されていました。僕もそのpoがあんまり好きではなく、チビ助にはpoはfeoだよって言って教育していました。それでチビ助がsipoとか言った時には、「それは誰がいつも言っているん?」って聞いたら、「blela(abuela)」と笑いながら答えていました。
チビ助は相当のお婆ちゃんっ子だったんですけど、彼にはお婆ちゃんは遠いところに旅行に行ったという説明しかしてあげれていません。チビ助はまた会えるものと思っているのか、彼が大きくなった時に淡い思い出として残っているだけなのか。お婆ちゃんはこれからもっと成長していくチビ助の姿を見たかっただろうな。
寿命が近づいているお婆ちゃんと孫が一緒にいる姿って本当かけがえのないひと時なんだなぁと実感しました。
人は死ぬ前に何を想うんだろう。義母が危篤状態の時には何を感じていたのかな?きっと今までの美しい想い出を回想していたんだろうね。僕はその一コマに出てきたか分からないけど、80年弱の人生を振り返っていたのかな。
確かフランスかスペインに行きたいと言っていたな。きっと年齢のわりには元気だったし、お金を貯めて機会さえ作れば一緒に行けていたのにな。そのことは思い残していないかな。
ビーニャやバルパライソなんか近場の国内旅行でももっと行くべきだったかな。海が好きだったっていうのもさっき聞いたよ。近々お骨を持ってバルパライソへ行くね。
昨年に日本からはるばる両親がやって来て、チリ人妻の両親と顔合わせをしたばかりだけど、本当良いタイミングに来てくれて良かった。チビ助と両家の爺さん婆さん5人の写真はかなり貴重な一枚となった。写真を現像して形見として持ち歩こうか。
この出来事から僕は何を学ぶのか?やはり家族や大事な人たちとの時間を大切にしないといけない。悔いのないように人生を過ごさないといけない。人の愛おしさ、愛情表現も大切にしないといけない。
このように学ぶ機会を与えてくれ、これまで僕らの家族、息子を支えてくれて本当に感謝しているよ。安らかに眠ってください。
1/17は42回目の結婚記念日。
そこまで頑張りたかったのかな。
Descanse en Paz, mi suegra Hortensia